「前方後円墳」はなぜ「前円後方墳」ではないのか

 日本史を習うと出てくる古墳の形に前方後円墳がある。なじみ深い歴史用語だが、なぜ円形のほうが後方なのだろうか。

前と後ろはどう決まったのか

 先日、神奈川県小田原市で前方後円墳が発見され、関東地方には少ない形状の古墳として注目された。古墳というのは、土を高く盛った古代の墓だが、一般的には古墳時代(弥生時代の後、飛鳥時代の前、3世紀半ばから7世紀末)に多く造られた各地の豪族の墳墓を指す。

 古墳には、円墳、方墳、八角墳、前方後方墳、双円墳、帆立貝形古墳などがあるが、耳なじみのいいのは前方後円墳だろう。全国の古墳で最も多いのは円墳で、文字通り上から見ると円形をしている。方墳は四角形、八角墳は八角形、双円墳は円墳が二つ重なった古墳、帆立貝形古墳は円墳に小さな張り出しが付いて帆立貝形になった古墳だ。

 ところが、前方後方墳、そして前方後円墳には、前と後ろという方向性が示されている。これはいったいなぜなのだろうか。

 古墳に前後の概念を与えたのは、江戸時代中期の国学者、蒲生君平(がもうくんぺい、1759-1813)だ。蒲生が著した『山陵志』は古墳研究の嚆矢とされ、近畿地方の古墳を実地に調査して天皇陵と考えられる墳墓を特定した書物だが、その中で蒲生は前方後円墳を「必象宮車而使前方後円」と記述した。蒲生は、古墳の形状を古代中国の霊柩車「宮車」に模したと考え、この「宮車」の前方を方墳、後方を円墳として前方後円墳と記述したわけだ(※1)。

 ただし、古墳時代の人が古代中国の「宮車」の形をもとに墳墓を造ったという証拠はなく、前方後円墳に前後があるという説明にはなっていない。

 明治期に日本の古墳を調査した英国人、ウィリアム・ゴーランド(William Gowland、1842-1922)は、前方後円墳を「Keyhole Shaped Tombs(鍵穴式古墳)」と呼んでいて方向性を示していない。もっとも現在の考古学者は、前方後円墳を英語で「Front Double Mound Tombs(前方二重式古墳)」とも記述している。

 内部構造を詳細に調べれば前後関係がわかるが、宮内庁の管理下にある天皇陵を含む陵墓の調査には限界があった。

 近年、限定的ながら内部の調査も進み、後円部に竪穴式や横穴式の石室があることがわかってきた。例えば、大阪府高槻市と茨木市にある三島古墳群の今城塚古墳(6世紀前半)では後円部に横穴式石室があったと推定されている(※2)。

 墳墓としての前方後円墳では、遺体を安置したと考えられる石室のある後円部がメインの構造物になるだろう。そのため、前方の方形は付随物であり、石室を納めた円墳が後方に位置するということになる。

 多くの前方後円墳は方形の中心を通って石室へ至る通路があったと考えられ、やはり前後関係があったことをうかがわせる。例えば、日本最大の前方後円墳である大山(だいせん、仁徳天皇陵)古墳は、方形の側に拝所がある。また、大山古墳の調査では、方形の前方から石棺や副葬品が見つかっているが、これは後円部の埋葬者の従者の墓と考えられている。

世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」大山古墳(仁徳天皇陵)の周濠。撮影筆者
世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」大山古墳(仁徳天皇陵)の周濠。撮影筆者

太陽と月の方向が影響しているのか

 最近、イタリアのミラノ工科大学などの研究グループが、Google Mapを使って日本全国158基の前方後円墳の向き(後円が北)を調べたところ、多くの前方後円墳の方形の側が一年を通して太陽と満月に向くよう配置されていたという(※3)。その割合は帰無仮説を否定する程度だそうだが、前方後円墳は意図的に向きを考えられて建築されたことを示唆し、やはり前方後円墳に前後があることを示している。

 なぜ、前方後円墳ができたのかについては、方形部が祭壇や装飾のためのものだったという説や広口壺土器の形状を模倣したという説、中国・漢代の墳墓(打虎亭漢墓など)が伝えられたという説、円墳と方墳が合体したという説など、諸説があるがまだはっきりとわかってはいない。

 円形と方形は、古代中国からもたらされた天円地方の宇宙観や陰陽思想とも関係する。天円地方というのは、天は円形、地は方形という陰陽思想に影響を受けた考え方だ。陰陽思想では円形を天、方形を地としているが、円形と方形を合体させ、陰と陽の両方を取り込んだのが前方後円墳とも考えられる(※4)。

 前方後円墳は、表面を小石などでおおい、草木が育ちにくくしており、その設計も複雑精緻でかなり高度な土木技術を駆使して建築されている。また、サイズに関してはヤマト権力の規格に沿いつつ、その地の豪族がそれぞれ自分なりにアレンジした規格で建築していたという(※5)。

 古墳には土器や埴輪などが配置されていたと考えられ、古墳は死者を弔う場所であったとともに豪族の長を継承するための宗教的な儀式を行う舞台でもあったようだ。前方後円墳では特にこの役割が大きい(※6)。

 ヤマト権力が地方豪族を従え、仏教が伝来して火葬が広まったことで、やがて古墳への埋葬は廃れていく。そして、7世紀の終わり頃から、特に前方後円墳は急速に造られなくなっていった(※7)。


※1:清水大吉郎、「前方後円墳の起源と地学」、地学教育と科学運動、第36号、2001

※2:森田克行、「今城塚古墳の調査成果」、日本考古学、第10巻、第15号、2003

※3:Norma Camilla Baratta, et al., “The Orientation of the Kofun Tombs” remote sensing, Vol.14(2), 377, 14, January, 2022

※4:須股孝信、坪井基展、「前方後円墳の設計理念と使用尺度」、土木史研究、第17号、1997

※5:柴原聡一郎、「前方後円墳の墳丘長の規格性」、東京大学考古学研究室研究紀要、第33巻、155-182、2020

※6:古屋紀之、「墳墓における土器配置の系譜と意義─東日本の古墳時代の開始─」、駿台史学、第104巻、31-81、1998

※7:広瀬和雄、「古墳時代像再構築のための構殺─前方後円墳時代は律令国家の前史か─」、国立歴史民俗博物館研究報告、第150集、2009