古事記の時代、日本に「野生ワニ」がいたか
数年前、鹿児島県奄美諸島の加計呂麻島(かけろまじま)で、体調50センチから60センチのワニが発見されて話題になった。いかに地球温暖化が進んでいるとはいえ、日本にワニが生息しているとは思えないが、それは果たして本当だろうか。
神話に登場するワニの正体は
8世紀に編纂されたとされる『古事記』の中に「因幡の白ウサギ(稲羽の素兎)」という章がある。大黒さまが出てくる有名な話で、隠岐の島からワニを並べて渡ってきたウサギがワニに皮を剥がれてしまい、大黒さまがウサギを治療してあげたという内容だ。
この話に出てくるワニについては、本当のワニなのかサメ(フカ)なのか、日本史学で長く議論されてきた。実は古事記に限らず、日本の古い書物にはワニがよく出てくる(※1)。
この議論に関係するのは、大化の改新の前の古代大和朝廷時代に応神天皇以降の7ないし8天皇の后を輩出した和珥(ワニ。和邇、丸邇などとも)氏という勢力だ。この一族からは遣隋使や遣唐使の使節が出たり、港湾や河川の管理役人が出たりし、和珥氏の一族は龍や蛇に対する祖霊(トーテム)信仰を持っていたという(※2)。
こうしたことから海や水に関係した和珥氏のルーツは、中国南部やベトナムなどでワニ(鼉竜:だりゅう)信仰を持った一族であり、いつの頃からか日本列島へ渡来して古代大和朝廷で勢力を形成したのではないかという説がある。そこで、日本の神話に出てくるワニの正体に関する議論で、和珥氏の和珥が爬虫類のワニであることから、因幡の白ウサギの話に出てくるワニは、サメ(フカ)ではなく爬虫類のワニなのではないかということになった。
もちろん、記紀の時代も日本にワニは生息していなかったであろうから、因幡の白ウサギのワニは爬虫類のワニではなく、水棲の獰猛な生物であるサメ(フカ)だったとする説もある(※3)。いずれにせよ、古代の日本に獰猛な生物を意味するワニという言葉があり、古い書物にひんぱんに使われていたこと、そして同じ音である和珥氏という勢力がいたことは確かだ。
日本へ漂着したワニたち
では、日本に野生のワニはいないのだろうか。実は戦前、ワニは日本に生息する脊椎動物のリストに入れられていた。これは日本の委任統治領だった太平洋のパラオ諸島にイリエワニ(Crocodylus porosus)が生息していたからだ。
また、冒頭で述べたように、奄美大島や西表島を含む琉球列島、小笠原諸島、八丈島にワニが漂着したという記録は江戸時代あたりから残されてきた。珍しいものでは、1932(昭和7)年11月に北陸の富山県の富山湾で体長60センチほどのワニが見つかったことが報じられたという(※4)。
ワニの多くは熱帯・亜熱帯に生息するが、中国・安徽省の絶滅危惧種であるヨウスコウワニ(Alligator sinensis)や米国ノースカロライナ州でも確認されるアメリカン・アリゲーター(Alligator mississippiensis)など、比較的平均気温の低い温帯域で生息できる種もいる。一般的にワニは低温に弱く、北緯35度以北には生息できないとされるが、ヨウスコウワニやアメリカン・アリゲーターをみるとアリゲーター科のほうが低温に強いようだ(※5)。
では、日本へ漂着するワニはどんな種類なのだろうか。ヨウスコウワニは主に淡水域で生息するし、数も少ないので日本まで来るのは難しそうだ。オーストラリアやパラオ諸島、フィリピンなどに生息するイリエワニは汽水域を含む塩水で生息でき、遠距離の海洋を移動することが知られている。
本来の生息域から太平洋の最も遠方でイリエワニが捕獲された例としては、1971年にカロリン諸島のポンペイ島(ポナペ島)で体長3.8メートルの個体が発見された記録がある(※6)。ポンペイ島はグアム島の東南東1700キロメートルに位置し、パラオ諸島からは直線で約1000キロメートル離れている。
また、衛星を使ってオーストラリア北部のイリエワニを追跡した研究によれば、体長3メートルから4メートルのオスは20日間で400キロメートル以上を移動し、海岸沿いに25日間で590キロメートル移動した個体もいたという(※7)。この調査によれば、ワニは1日10キロメートルから30キロメートルをコンスタントに移動したことになる。
海洋を長距離移動するイリエワニ
イリエワニのオスは縄張り意識が強く、若い個体が縄張りから押し出され、その結果、長い距離の海洋を移動することもあると考えられているが、この遠泳能力は海流に乗ることで成し遂げられているようだ。この調査研究をした研究グループによれば、イリエワニは潮汐や潮の流れを知っていて移動しているとしか思えず、それがイリエワニが広範囲に分布してきた効率的な種の分散戦略になっているのではないかという(※8)。
中南米のイリエワニのミトコンドリア遺伝子を解析した研究によれば、カリブ海を約700キロメートル、移動した可能性が示唆されたという(※9)。また、最近の研究によれば、体長4.23メートルのオスのイリエワニが6ヶ月で900キロメートルを移動したこともわかっている(※10)。
また、海水は約3.5%の塩化ナトリウム溶液だが、イリエワニは海水に身体を浸しても仮に海水を飲んでしまっても浸透圧を一定に保つため、ペンギンや海に潜る種類のウミウやカモメなどの鳥、またウミガメなどと同じような塩分を排出する塩類腺という分泌腺を持っている。そのため、水分が外へ出てしまわないような身体の仕組みになっているようだ(※11)。
イリエワニは、インド東部からインドシナ半島、インドネシア、オーストラリア、そしてフィリピンに生息している。日本へ漂着するとすればフィリピンのイリエワニ(Crocodylus mindorensis)と考えられるが、2017年に奄美諸島の加計呂麻島で見つかった2匹のワニは、シャムワニ(Crocodylus siamensis)とイリエワニの交雑種で皮革製品のための養殖ワニの可能性が高かったという。
シャムワニは成長しても体長3メートルほどと小型であるため、皮革を効率的にとるため、大型のイリエワニと交雑させることが行われているからだ。そのため、純粋なシャムワニの遺伝子を保存し、人為的な遺伝子汚染を防ごうと試みられている(※12)。
日本にいたマチカネワニとは
このようにイリエワニは、海流に乗ってかなりの長距離を移動できるようだ。ただ、これまで日本で発見されたワニは外来種であり、日本固有の生物ではない。
だが、日本にもかなり大型のワニが生息していたという証拠がある。それが全国各地から発見されるワニの化石だ。
日本では、鮮新世(せんしんせい、Pliocene、約500万年前から約258万年前)後期から更新世(こうしんせい、Pleistocene、約258万年前から約1万年前)中期にかけてワニの化石が出ている(※13)。更新世中期はちょうどチバニアン(Chibanian、78万1000年〜12万6000年前)の時代と重なる。
日本のワニの化石で最も有名で貴重なものは、大阪大学総合学術博物館に展示されているマチカネワニ(Toyotamaphimeia machikanensis)だろう。マチカネワニの化石は、約300万年前から約30万年前の大阪層という地層の中期更新世の地層(大阪層群カスリ火山灰層準、〜約40万年前)から1964年に全骨格の約80%が発見され、それは頭骨だけでも1メートル以上という大きな化石だった(※14)。
数十万年前まで日本にいたワニは、約1万年前の最終氷河期までに日本からいなくなったと考えられている。マチカネワニは原生のマレーガビアル(Tomistoma schlegelii)の近縁であり、淡水性の高い種類だったが、氷河期が終わって暖かくなると飛び石伝いに再び日本列島へ戻ってきた可能性もある(※13)。
日本で最も近い過去の地層から発見されたワニの化石は34万7000年前のものだ(※15)。もしかすると、日本列島に住んでいた旧石器時代からの人々のマチカネワニなどの記憶と古代大和朝廷時代の和珥氏の龍蛇信仰が混淆し、記紀や神話などに「因幡の白ウサギ」などの形でその痕跡を残していたのかもしれない。
※1:黒沢幸三、「ワニ氏の伝承 その一 ─氏名の由来をめぐって─」、奈良大学紀要、第1号、1972
※2:宝賀寿男、『和珥氏─中国江南から来た海神族の流れ─』、青垣出版、2012
※3:神田典城、「『ワニ』小考」、国語国文論集、第22号、1993
※4:高島春雄、「日本のワニ」、山階鳥類研究所研究報告、第7号、1955
※5:I. Lehr Brisbin, et al., “Body Temperatures and Behavior of American Alligators during Cold Winter Weather” The American Midland Naturalist, Vol.107, No.2, 209-218, 1982
※6:Donald W. Buden, John Haglelgam, “Review of Crocodile (Reptilia: Crocodilia) and Dugong (Mammalia: Sirenia) Sightings in the Federated States of Micronesia” Pacific Science, Vol.64(4), 577-583, 2010
※7:Mark A. Read, et al., “Satellite Tracking Reveals Long Distance Coastal Travel and Homing by Translocated Estuarine Crocodiles, Crocodylus porosus” PLOS ONE, doi.org/10.1371/journal.pone.0000949, 2007
※8:Hamish A. Campbell, et al., “Estuarine crocodiles ride surface currents to facilitate long-distance travel” Journal of Animal Ecology, Vol.79, 955-964, 2010
※9:Sergio A. Balaguera-Reina, et al., “Tracking a voyager: mitochondrial DNA analyses reveal mainland-to-island dispersal of an American crocodile (Crocodylus acutus) across the Caribbean” Biological Journal of the Linnean Society, Vol.131, 647-655, 2020
※10:Yusuke Fukuda, et al., “Translocation, genetic structure and homing ability confirm geographic barriers disrupt saltwater crocodile movement and dispersal” PLOS ONE, doi. org/10.1371/journal.pone.0205862, 2019
※11:Martin Grosell, et al., “Salt-water acclimation of the estuarine crocodile crocodylus porosus involves enhanced ion transport properties of the urodaeum and rectum” Journal of Experimental Biology, Vol.233, doi:10.1242/jeb.210732, 2020
※12-1:Raineir I. Manalo, et al., “Conservation of the Philippine crocodile Crocodylus mindorensis (Schmidt 1935): in situ and ex situ measures” International Zoo Yearbook, Vol.49, Issue1, 113-124, 2015
※12-2:Balaji Chattopadhyay, et al., “Conservation genomics in the fight to help the recovery of the critically endangered Siamese crocodile Crocodylus siamensis” Molecular Ecology, Vol.28, Issue5, 936-950. 2019
※13:Masaya Iijima, et al., “Toyotamaphimeia cf. machikanensis (Crocodylia, Tomistominae) from the Middle Pleistocene of Osaka, Japan, and crocodylian survivorship through the Pliocene-Pleistocene climatic oscillations” Palaeogeography, Palaeoclimatology, Palaeoecology, Vol.496, 346-360, 2018
※14:小林快次、江口太郎、『マチカネワニ化石─恐竜時代を生き延びた日本のワニたち─』、大阪大学総合学術博物館叢書、2010
※15:Koji Nojima, Junji Itoigawa, “Tomistominae gen. et sp. indet. (Crocodylia: Crocodylidae) from the Lower Yage Formation (Middle Pleistocene) in Hamamatsu City, Shizuoka Prefecture, Japan” Bulletin of the Mizunami Fossil Museum, No.43, 35-46, 2017