「国際条約」を履行しない日本政府とマスメディア
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、国際連合憲章の第2条の4項に違反し、ジュネーブ条約にも抵触すると批判されている。だが、日本政府も署名した国際条約を順守していない。日本政府やマスメディアが無視し続けている国際条約とは「たばこ規制枠組条約」だ。
日本が締結する国際条約
日本はもちろんロシアも加盟する国際連合が定め、各国政府がその内容に同意した国際連合憲章というものがある。その第2条の4項には「すべての加盟国は、その国際関係において武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と書いている。
つまり、武力・軍事による脅迫や威嚇、その行使は「抑制すべき」となっている。不明瞭な表現である国際連合憲章の「慎まなければならない」という言葉は、原文では「refrain」となっていて「控える」とか「慎む」という意味だが、例外が二つあって一つは自衛権の行使、そして国連軍などのように国際的な平和と安全の維持のための集団的軍事行動だ。
この例外項目以外にも、1999年にNATOが旧ユーゴスラビアを爆撃したり、今回のロシアの主張のように「人道的介入(Humanitarian intervention)」の名のもとに軍事行動を起こすこともある。だが、議論の多いこうした人道的介入は、1999年に開催されたG77途上国会議で否定されたように通常は認められないとされる。
ところで、日本も多国間の国際条約を多く締結している。保健医療、公衆衛生上の国際条約に限っても、例えば「石綿の使用における安全に関する条約」(1989)「麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合条約」(1990)「有害化学物質等の輸出入の事前同意手続に関するロッテルダム条約」(2004)などがある。WHO(世界保健機関)との連携も多く、エボラ出血熱に対応するための緊急無償資金協力などを実施してきた。
そのWHOは、1999年の総会においてタバコの規制を国際的に取り決めるための会議を設立することを決めた。その結果、2003年2月まで国際条約の内容について日本を含む各国の代表が協議に参加し、2003年5月21日のWHO総会でタバコの規制に関する世界保健機関枠組条約(WHO FCTC、以下、たばこ規制枠組条約)が採択された。
日本は、衆参両院の承認をもって同条約に署名し、2005年2月27日に発効し、日本国内において同条約の効力が発生している。
たばこ規制枠組条約を順守しない国
たばこ規制枠組条約への署名、発効で、日本政府にはこの国際条約を順守する責任が生じた。日本政府は、条約の発効前にタバコ広告規制を強化(テレビなどの広告原則禁止など。2004年3月、財務省の指針、2022年4月改正)を出し、最近でも財政制度等審議会は2018年12月にタバコのパッケージに文字による注意文言表示規制を強化している。
また、厚生労働省が健康増進法のもと策定した健康日本21(第一次、2008年~)では数値目標のない喫煙率の引き下げが盛り込まれ、第二次の健康日本21(2013年~)では2022年度の喫煙率を12%へ下げ、妊娠中の喫煙をゼロにすることが目標となった。2019年の喫煙率が16.7%だったから2022年に目標達成できるかどうか微妙なところだ。
さらに、2006年からは禁煙治療の際に保険適用できるようニコチン依存症管理料を新設、受動喫煙防止対策を中心として2015に職場の受動喫煙防止対策を含めて労働安全衛生法が改正された。東京五輪の開催国として国際オリンピック委員会やWHOからタバコ対策の強化を求められ、受動喫煙防止対策を拡大して健康増進法を改正し、2020年4月から全面施行した。また、たばこ税も段階的に引き上げられている。
ただ、日本政府は、たばこ規制枠組条約に署名・加盟しているのにもかかわらず、国内法を変えずに対応するとし、多くの条項を順守してこなかった。
たばこ規制枠組条約を進めるWHOは、加盟国のタバコ規制の進捗状況を評価する「MPOWER」という指標をもうけ、各国の取り組みを可視化してきたが、日本政府のタバコ規制は喫煙者に対してインパクトが小さいとされている(※1)。また、健康増進法を改正しても、過去の五輪開催国の中で日本は最もタバコ規制の政策が遅れている(※2)。
そもそも、日本には依然として「タバコ産業の健全な育成」を定めた「たばこ事業法」があり、日本政府は日本たばこ産業(以下、JT)の大株主で33.35%の同社株式を財務大臣が持ち、さらにJTの副会長は財務省からの天下り官僚が起用されている。
タバコ産業と密接なつながりがあるのにもかかわらず、たばこ規制枠組条約に署名した日本と日本政府は、これらの理由から条約に定められた条項をほとんど無視してきた(※3)。
たばこ規制枠組条約を策定する過程においても、日本政府はその効力をなるべく脆弱にしようと画策した。当初は厚生労働省の担当者が策定に関わっていたが次第にタバコ産業の存続を意図する財務省の担当者が増えていき、規制を各国の裁量にまかせるような文面を条文に盛り込ませ、条文の解釈に幅をもたせ、JTなどタバコ産業になるべく影響が出ない内容に変えるよう努めていた(※4)。
条約と国内法の矛盾
たばこ規制枠組条約で重要とされている第5条の3項は、タバコ規制政策をタバコ産業の影響から守らなければならないと定めているが、ここに「国内法に従って」という文言が入っている。だが、たばこ規制枠組条約の第5条の3項における「国内法に従って」というのは、タバコ規制を強める国内法を策定すべき、という意味である。
日本政府は、たばこ事業法を維持したまま、たばこ規制枠組条約に署名しているが、ここには大いなる矛盾がある。それを放置し、国際条約を順守できない状況を変えない日本政府は、国際法に違反しているとされても仕方ない。そして、タバコ産業は常にこれらの規制をスリ抜け、規制を弱体化させようと画策する(※5)。
また、日本のテレビではJTの「意味不明な」コマーシャルがごく普通に流されているが、たばこ規制枠組条約は第13条でタバコ会社の宣伝行為を禁じている。締約各国に対して自国メディアにタバコ会社の広告宣伝を掲載しないよう求め、同時に「紛らわしく曖昧で消費者に間違った認識を与える」危険性のあるタバコの広告宣伝販促活動にも規制がかけられている。
前述した財務省による製造たばこ広告に関する指針も、たばこ規制枠組条約の準拠したものだが「企業活動の広告並びに喫煙マナー及び二十歳未満の者の喫煙防止等を提唱する広告については、この指針の対象に含まれない」とあり、規制をいかにスリ抜けるのか、タバコ行政の苦心のほどがうかがえる。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を非難するテレビ局は、タバコ会社のコマーシャルを流すという国際条約違反を自ら犯していることをどう思っているのだろうか。筆者はこの件に関し、在京キー局5社に見解をうかがったが、横並びの取り決めでもあるかのように指定期日までにどの局からも回答はなかった。
読者の中には、タバコ会社をそんなに悪者と決めつけなくてもいいのでは、という意見を持つ方もいるかもしれない。だが、日本ではタバコを吸うことによって毎年12万人から13万人、亡くなっているし、受動喫煙でも毎年1万5000人ほどが亡くなっていると推定されている(※6)。
この数は、新型コロナ感染症による年間の死亡者の約10倍だ。また、肺がんに関してだけでもタバコは職業的なアスベストの暴露より危険とされている(※7)。
喫煙は予防できる単一で最大の病気の原因であり、年間十数万人の命を奪う公衆衛生上の課題でもある。国民の健康を損ない、生命を奪う製造物を、JTのようなタバコ会社はずっと作り続け、日本政府はその活動を助けてきた。
一方、タバコを規制すれば、かなり強い効果があらわれる。
たばこ規制枠組条約の締約国での喫煙率を3年間(2006年から2009年)比較した研究によれば、男性で1.07%、女性で1.04%それぞれ喫煙率が下がっていたし(※8)、10年間(2007年から2014年)の評価によると前述したMPOWERの施策を実行することによって喫煙原因の疾患死亡数が約2200万人減と大きく減るのだ(※9)。
また、たばこ規制枠組条約の締約国がしっかりタバコ規制政策を実行すれば、2030年までにがんや呼吸器系疾患、心血管疾患などの非感染性疾患の死亡率を1/3に減らせるかもしれないとされている(※10)。
日本政府はダブルスタンダードをやめ、たばこ事業法を廃止するなど、たばこ規制枠組条約と矛盾する状態を解消し、今すぐに国民の健康と生命を重視する政策へ転換すべきだ。
※1:仲下祐美子ら、「たばこ規制に対するたばこ使用者を対象にした調査結果の国際比較」、厚生の指標、第63巻、第6号、24-32、2016
※2:Meng Li, et al., “The status and future directions of comprehensive tobacco control policies for the 2020 Tokyo Olympic Games: A review” Tobacco Induced Diseases, Vol.17, Issue24, 2019
※3:Paul Cairney, Mikine Yamazaki, “A Comparison of Tobacco Policy in the UK and Japan: If the Scientific Evidence is Identical, Why is There a Major Difference in Policy?” Journal of Comparative Policy Analysis: Research and Practice, Vol.20, Issue3, 2017
※4:Mary Assunta, Simon Chapman, “Health treaty dilution: a case study of Jpana’s influence on the Language of The Who Framework Convention on Tobacco Control” Epidemiology & Community Health, Vol.60, Issue9, 2005
※5-1:K E. Smith, et al., “Tobacco industry attempts to undermine Article 5.3 and the “good governance” trap” Tobacco Control, Vol.18, Issue6, 2009
※5-2:Sungkyu Lee, “What hinders implementation of the WHO FCTC Article 5.3? – The case of South Korea” Global Public Health, Vol.11, Issue9, 2016
※6-1:Yoshitaka Murakami, et al., “Population attributable numbers and fractions of deaths due to smoking: A pooled analysis of 180,000 Japanese” Preventive Medicine, Vol.52, Issue1, 60-65, 2011
※6-2:Nayu Ikeda, et al., “What has made the population of Japan healthy?” LANCET, Vol.379, Issue9796, 1094-1105, 2011
※6-3:片野田耕太ら、「たばこ対策の健康影響および経済影響の包括的評価に関する研究」厚生労働科学研究費補助金循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究事業、平成27(2015)年度報告書
※7-1:Gillian Frost, et al., “The Effect of Smoking on the Risk of Lung Cancer Mortality for Asbestos Workers in Great Britain (1971-2005)” ANNALS OF WORK EXPOSURES AND HEALTH, Vol.55, Issue3, 239-247, 2011
※7-2:Emilie Leveque, et al., “Time-dependent effect of intensity of smoking and of occupational exposure to asbestos on the risk of lung cancer: results from the ICARE case-contorol study” Occupational & Environmental Medicine, Vol.75, Issue8, 2017
※8:Jolene Dubray, et al., “The effect of MPOWER on smoking prevalence.” BMJ, Tobacco Control, Vol.24, Issue6, 2015
※9:David T Levy, et al., “Seven years of progress in tobacco control: an evaluation of the effect of nations meeting the highest level MPOWER measures between 2007 and 2014.” BMJ, Tobacco Control, Vol.27, Issue1, 2018
※10:Shannon Gravely, et al., “Implementation of key demand-reduction measures of the WHO Framework Convention on Tobacco Control and change in smoking prevalence in 126 countries: an association study.” Lancet Public Health, 2: e166-74, 2017