太平洋戦争中、日本が放った「風船爆弾」原爆製造のマンハッタン計画への影響は

 米国本土上空で白い球形の物体が確認され、中国の偵察用気球ではと話題になっている。中国製だとすれば太平洋を飛び越えたわけだが、太平洋戦争中、日本も大量の風船爆弾を作って米国を攻撃しようとした。

登戸研究所で作られた風船爆弾とは

 明治大学の生田キャンパスは、旧日本陸軍の登戸研究所(第九陸軍技術研究所)の跡地にある。登戸研究所では、偽札を印刷する経済攪乱戦、諜報活動、防諜スパイ活動、謀略宣伝、占領地での生物兵器の人体実験といった秘密作戦を担当し、戦局が悪化した1943年頃から風船爆弾(ふ号兵器)の製作を担当した。

 こうした旧軍の跡地を利用しているせいか、明治大学には平和教育のための平和教育登戸研究所資料館があり、同資料館では何度か登戸研究所に関する企画展が開かれてきた。いわゆる風船爆弾については、同資料館が2015年に開催した「第5回企画展『紙と戦争─登戸研究所と風船爆弾・偽札─』」で詳細が紹介され、いくつかの記録史料も出ている(※)。

 これらの史料によれば、登戸研究所では十五年戦争が始まった前後から宣伝用気球(せ号兵器)の研究開発をしていた関係で、対ソ戦を想定していた陸軍から風船爆弾を作るように命じられ、和紙をコンニャク糊で貼り合わせた気球を開発したのだという。その後、ドゥーリトルによる東京空襲(1942年4月)、ミッドウェー海戦での大敗(1942年6月)、ガダルカナル撤退(1943年2月)などにより戦局が悪化すると、陸軍は風船爆弾を高空の偏西風に乗せることによる米国本土爆撃を構想し、登戸研究所に開発を打診する。

 いわゆるジェット気流を利用するため、登戸研究所は、中央気象台の協力を得て太平洋の上層気流を正確に観測し、風船爆弾が運ばれるであろう想定航路を策定したそうだ。陸軍から正式に研究開発命令が出たのが1943年8月で、直径約10メートルの気球に15キロ爆弾1発と5キロ焼夷弾2発を搭載するという要求だった。

 実際に開発された風船爆弾は、内圧がなくコストの安い無圧方式でコウゾで作られた手漉き和紙をコンニャク糊で貼り合わせ、水素(フェリシリコンと苛性ソーダから生成)を漏らさないようにして浮上した。風船本体は、国内の和紙業界を総動員しつつ、紙幣の発行などに影響が出ないように生産調整し、量産は主に女学校の生徒を動員して行ったという。

マンハッタン計画への影響は

 最終型は、5キロの焼夷弾4発と15キロの焼夷弾1発か15キロ爆弾1発(合計35キロ)を搭載し、低温時に高度が下がると気圧計が感知してバラスト(2キロの砂袋を32個)を投下し、1万メートルの飛行高度を維持できるものとなった。登戸研究所による試作品の完成が1944年3月、千葉県一宮で試験を行い、改良を重ね、同年9月には滞空時間70時間以上を達成できるようになる。

 その後、1944年11月から福島県勿来(現いわき市)、茨城県大津(長浜海岸)、千葉県一宮から放球され、合計9300球(陸軍)が太平洋上空へ向かっていった。北米大陸へ到達した風船爆弾は、米国の調査報告によれば285球(約3%)となっているが、実際には10%程度だろうという。また、2014年にはカナダで風船爆弾の不発弾が見つかっている。

 有名な戦果としては、原爆製造のマンハッタン計画のため、プルトニウムを生産していた米国のワシントン州内陸にあるコロンビア川河畔のハンフォード原子力サイトの電力網に風船爆弾が引っかかってショートさせ、火災は起きなったが原子炉を一時的な無電源状態にさせている。

 もっともこの無電源状態は、石炭火力発電などのバックアップシステムによって瞬時に復旧され、原子炉の緊急停止は起きず、原爆製造のスケジュールに影響は出なかった。

 また、これはとても戦果といえるようなものではないが、米国政府が情報統制していたこともあり、オレゴン州で危険を知らされていなかったハイキング中の妊婦と子ども合計6人の民間人が爆発によって死亡している。各地で山林火災を発生させるなど、人心洶洶、後方攪乱の効果は多少あったようだ。


※:小林良生、「太平洋戦争時登戸研究所の秘密戦兵器開発に対して製紙業界が行った生産協力─企画展『戦争と紙』に因んで─」、明治大学平和教育登戸研究所資料館、館報、第1号、3-38、2016

※:塚本百合子、「風船爆弾に利用された『紙』」、明治大学平和教育登戸研究所資料館、館報、第1号、39-71、2016

※:山田朗、「第5回企画展『紙と戦争─登戸研究所と風船爆弾・偽札─』記録 企画展記念講演 紙と戦争─登戸研究所と風船爆弾・偽札─」、明治大学平和教育登戸研究所資料館、館報、第1号、101-123、2016