日本のサッカー「蹴鞠」について考える─後鳥羽上皇と北条時房も熱中─

 足技を競う球技は多いが、日本にも古くから蹴鞠という芸事がある。サッカーのようにもみえる蹴鞠だが、どのような競技なのだろうか。

スポーツは遊びから始まった

 サッカーW杯が盛り上がっている。いうまでもなくサッカーは、主に足だけを使う競技で、似たようなスポーツにフットサルや東南アジア発祥のセパタクローなどがある。日本にも足を使う競技があり、それが鎌倉時代を描いた大河ドラマにも出てくる蹴鞠だ。

 ヒトは、なぜスポーツに熱狂するのだろうか。スポーツが遊びから遊戯、芸事から競技になったことを考えると、スポーツもヒトが根源的に持つ遊びの要素が大きいからだと考えられる。

 オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(1938)でヒトがヒトたるゆえんは遊びにあるとし、フランスの哲学者、ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』(1958)で遊びをより深く掘り下げた。日本古来の球技芸事である蹴鞠も貴族階級の遊びから発展し、江戸時代には庶民も楽しむ競技になっていく。

 スポーツを含む遊びは、まず自発的で自由な行為であり、利益を度外視する非日常性を持ち、時間・空間的に限定され、ルールがあるのが特徴だ。これらの定義からすれば、サッカーも蹴鞠も遊びであり、遊戯から競技、つまりスポーツになっていった。

蹴鞠の歴史をひもとく

 蹴鞠は、夏(紀元前21世紀頃から紀元前17世紀頃)や殷(紀元前17世紀頃から紀元前11世紀頃)などの古代中国で神事として行われていたと考えられ、漢の時代に庶民を含めた遊びになり、また兵士の鍛錬などでも推奨されたようだ。中国や韓国の蹴鞠がいつ日本へ伝えられたのか、まだはっきりしていないが、おそらく遣唐使や遣隋使によって6世紀から7世紀頃、日本へ伝来したと考えられている(※1)。

 その後、蹴鞠は平安貴族の遊戯として発展するが、平安時代の蹴鞠は鞠をいかに落とさずに蹴り続けられるか、という一点に目的があった。そして、競技場の四隅に植えられた「懸の木」にぶつけたり、周囲の家屋の軒へ蹴り上げて落ちてくるような難しい状態になった鞠を蹴り続け、次の蹴りへとつなげる優れた技(明足)を競うようになったという(※2)。

 蹴鞠の歴史にとって重要なのは、平安時代末期から鎌倉時代だ。後白河天皇や後鳥羽上皇といった雲上人が熱心に蹴鞠をするようになった。大河ドラマで後鳥羽上皇と北条時房が京都で鞠を蹴り合う場面にも出てきたように、やがて蹴鞠は武士階級にも広がっていく。

 サッカーにもプレミアリーグとEFLチャンピオンシップなど、セリエAとセリエBなど、J1とJ2などのようなピラミッド体制があるが、蹴鞠にも武芸一般や芸事と同様、家元制度や段級制度があった。後鳥羽上皇は、蹴鞠で足の蹴る部分に装着する皮当てを色分けするような段級制度を取り入れたという。京都と鎌倉の間の権力闘争において、身分や蹴鞠の上手下手を示すこの段級制度は、一種の政治的な駆け引きの道具としても利用された(※3)。

 やがて室町期に貴族階級が没落すると、和歌や連歌とともに蹴鞠は武士階級へその作法技法を指南伝授することで貴族階級の経済的な収入の一つになった(※4)。こうした貴族は、蹴鞠の師匠として京都から越前や長門、駿河、相模といった地方へ赴き、各地へ広がると同時に地下鞠(じげまり)というように下級武士や庶民も蹴鞠をするようになっていく。

蹴鞠から能へ至った世阿弥

 蹴鞠がおよぼした影響として特に注目したいのは能との関係だ。能の創始者である世阿弥は、蹴鞠をよくし、その身体的な動作や概念を能の序破急へ展開した。動的な蹴鞠と静的な能の間に意外な接点があったという(※5)。

 蹴鞠の有力な家元制度としては、飛鳥井家と難波家があった。これら家元は、江戸時代に幕府から保護され、貴族や武士らが行った堂上鞠と庶民が行う地下鞠(外郎派地下鞠)に分化していく(※6)。特に飛鳥井家の権威は強く、多くの特権が与えられた。

 競技や遊戯は、大衆化して一般化するのと並行して、主体が観戦する側、行う側ではなく見る側を登場させる。つまり、サッカーのW杯のように、優れた競技主体者の技能を見る観戦スポーツというわけだが、蹴鞠も江戸城内で蹴鞠の技能上級者が集められて徳川将軍の前でお披露目が行われていたようだ。

蹴鞠もスポーツである

 蹴鞠はどんな競技だったのだろうか。通常は8人が4人ずつのチームに分かれ(6人で3人も)、鞠を蹴り続ける。蹴鞠の鞠は、馬皮や鹿皮で作られ、中央がくびれた形状で中空になっていた。また、鞠はサッカーボール(5号で直径22センチ、重さ410グラムから450グラム)よりやや小さくかなり軽い(直径約20センチ、重さ約120グラム)。

 ルールは、決められた順番で鞠を蹴り、落とさずに何回、蹴り続け、鞠をつなぎ合ったのかを競う。基本的に右足だけで蹴り、ヘディングはない。足運び、姿勢、蹴った高さ、回数を競い、堂上鞠では細かなルールが決められていた(※7)。

 サッカーでいうところのピッチ、競技スペースには、前述したとおり四隅に懸木(式木、四季木)を植え、木の種類は松、桜、柳、楓(冬春夏秋)となっていた。競技場の広さは、懸木間の距離が約4メートル50センチから14メートルくらいまで様々だが形は正方形。懸木には枝が生えており、枝葉に乗せて落ちてくる鞠を蹴った。

 では、蹴鞠はスポーツなのだろうか。スポーツとは、一定のルールに則って勝敗を競ったり楽しんだりする身体的な活動のことをいうが、ホイジンガやカイヨワを引くまでもなく、スポーツには遊びの要素が含まれている。蹴鞠は、神事から始まって遊びになり、ルールができて勝ち負けを決め、身体的に行う。明らかにスポーツといっていい。

 ところで、遊びの定義として利益を度外視する非日常性を説いたホイジンガは、競技を職業とするスポーツのプロ選手について「遊びの領域から去っていく」と批判したが、競技としての「遊び」に熱中する選手らに引き込まれる魅力は確かにある。競技者に観衆が引き込まれる共感や共振(リズムとハーモニー)は遊びとしてのスポーツの魅力の一つである。そして、それがなければサッカーW杯に大衆が熱狂したりしないのだ。


※1:吉谷千恵子ら、「日本古来の蹴鞠についての一考察─中国・韓国の蹴鞠の伝来と継承─」、神戸女子短期大学紀要論攷、第37巻、第9号、135-144、1992

※2:渡辺融、「スポーツとして見た蹴鞠」、中京大学体育学論叢、第38巻、第2号、143-160、1997

※3:尾形弘紀、「蹴鞠の哲学、または地を這う貴族たち:院政期精神史のひとつの試み(3)」、中央大学文学部紀要、第267巻、177-217、2017

※4:山本啓介、「中世における和歌と蹴鞠─伝授書と作法─」、中世文学、第56巻、2011

※5:鈴木元、「稽古する:連歌の身体性をめぐる覚書」、国文研究、第63巻、1-15、2018

※6:村戸弥生、「外郎派地下鞠の蹴鞠技術『一足三段』について─外郎右近政光著『中撰実又記』から─」、金沢大学国語国文、第45巻、1-14、2020

※7:谷釜尋徳、「近世における江戸の球戯について」、スポーツ健康科学紀要、第18巻、1-35、2021