なぜ垂直なのに斜めってるの? 香港のピークトラムで「傾斜の錯視」が解明される

 我々は自分の身体の状態を知覚し、バランスをとりながら立ったり歩いたりしている。だが、非日常的な状況に陥ると、垂直を知覚できないように錯覚することが起きる。今回、日本、カナダ、ドイツなどの国際研究グループが香港のピークトラムで実験し、その謎の一端を解明した。

香港のピークトラムで実験

 平衡感覚は、主に頭部の左右に備わった回転加速度の感覚受容器である三半規管、そして直線加速度の受容器である耳石によって行われ、脳の前庭系というユニットに送られて処理される。この他に反射運動として身体的な応答があり、筋肉や腱、靱帯、皮下組織などの深部知覚や視覚情報が統合され、筋肉系としての出力系に伝達されて身体の平衡状態を保っている(※1)。

 こうした平衡感覚には垂直を知覚することも重要だが、トリックアートの体験錯覚施設のように、我々は得てして本当の垂直を知覚できない状態に陥る。最近、東北大学電気通信研究所(RIEC)の曾加蕙(Chia-huei Tseng)准教授と東北学院大学人間科学科の櫻井研三教授らの国際研究グループは、垂直な建物が傾いて見える錯視がどうやって起きるのか、その仕組みの一部を解明し、学術誌に発表した(※2)。

 従来、垂直を知覚できなくなる錯視状態は、身体の前後の傾き(ピッチの効果)、そして直線的な移動(加速度、耳石への効果)、それぞれについて別々に研究されてきたという。同研究グループは、この2つの要因が組み合わされた際に錯視が起きるのではないかと考え、実際に香港のケーブルカー、ピークトラムに乗ってフィールドワークとして実験した。

 ピークトラムに乗ると、垂直であるはずの周囲のビルディングが傾いて見えることがあるという。筆者はピークトラムには1回しか乗ったことがないが、霧が濃かったのでこの錯視は実感できなかった。

 同研究グループは、ピークトラムの最後部の車内に長さ105cmの中空のプラスチック棒を垂直に設置し、実験参加者(21歳から73歳の男女10人)の主観的な垂直に合わせて調整してもらったという。このプラスチック棒には垂直を正確に読み取るデバイスがつけられ、参加者の錯視を測定した。

香港島の急傾斜を登るピークトラムを使った実験では、プラスチック棒によって参加者の主観的な垂直と誤差を測定した。Via:東北大学プレスリリース
香港島の急傾斜を登るピークトラムを使った実験では、プラスチック棒によって参加者の主観的な垂直と誤差を測定した。Via:東北大学プレスリリース

 従来の研究ではピークトラムのような現実世界ではなく、実験室内での測定だったといい、実験室内での測定でヒトは1度未満の誤差で主観的な垂直を知覚できる。だが、同研究グループが測定したところ、10度も主観的な垂直が傾くという結果が出たという。主観的な垂直が傾くということは、前述したように垂直であるはずの周囲のビルディングが傾いて見える。

前後の傾きと直線的な移動による錯視

 なぜ、こうしたひどい誤差が出るのか、同研究グループは視覚情報を得られなくなるよう参加者に目を閉じてもらい、さらに傾斜による前庭系の影響を排除するため、座席と背の間にくさび形のクッションを挟んで再度、ピークトラムで実験したところ、同じような誤差が出た。目を閉じても傾斜がなくなっても、主観的な垂直の錯視を減らすことはできなかったという。

 その後、同研究グループは実験室に場所を移し、傾斜のみの影響を計測するために歯科用の椅子を使って実験したがピークトラムほどの誤差は出なかった。また、直線的な移動のみによる影響を計測するために斜面を登るピークトラムではなく路面電車で同じ実験をしたが、これも大きな誤差は出なかった。同研究グループはこの結果から、身体の傾きと直線的な移動の両方が合わさった場合に主観的な垂直の大きな錯視が起きると結論づけた。

 航空機やヘリコプターのパイロットが飛行中に方向感覚を失い、混乱状態に陥ることは以前からよく知られている(※3)。その原因は多種多様であり、高速度で移動することによる感覚異常、主観的な疲労の影響、経験の差などがあるとされてきたが(※4)、身体のピッチと直線的な加速度が合わさって錯視が生じるという今回の研究成果によって、その原因の一端が解明されるかもしれない。

 ところで、地球上で重力を受けて平衡状態で立つ、直立するということは、1Gの加速度で上昇し続けるエレベーターに乗っている状態と同じと考えられている。加速度を感じる耳石はこのような上方への加速度を感知しているはずだが、我々の感覚器は静止状態と知覚し、高低で上昇する加速度を感じているわけではない(※5)。

 我々がこの現実世界をどう知覚し、どう振る舞っているのか、それを知ることはとても重要だ。垂直に生じるはずの重力を垂直ではないと錯覚する原因が解明されれば、パイロットの感覚異常や高齢者の転倒などの防止に活用できるかもしれない。


※1:肥塚泉、「感覚器の老化と抗加齢医学」、日本耳鼻咽喉科学会会報、第119巻、第2号、2016

※2:Chia-huei Tseng, et al., “Body Pitch Together With Translational Body Motion Biases the Subjective Haptic Vertical” BRILL, Multisensory Research, DOI:10.1163/22134808-bja10086, 20, December, 2022

※3-1:Tormes R. Felix, et al., “Disorientation Phenomena in Naval Helicopter Pilots.” US Navy, Bureau of Medicine and Surgery,1974

※3-2:Frederick R. Paterson, et al., “Visual Perspective Illusions as Aviation Mishap Causal Factors” International Symposium on Aviation Psychology, 17th, 512-517, 2013 

※4-1:Aasef G.Shaikh, et al., “Sensory Convergence Solves a Motion Ambiguity Problem.” Cell, Current Biology, Vol.15, Issue18, 1657-1662, 2005

※4-2:Fred H. Previc, et al., “The Effects of Sleep Deprivation on Flight Performance, Instrument Scanning, and Physiological Arousal in Pilots.” The International Journal of Aviation Psychology, Vol.19, Issue4, 2009

※5:前田太郎、「前庭電気刺激による加速度知覚と応答反応の応用」、応用物理、第90巻、第9号、2021